今日は11月3日、文化の日。
文化包丁や文化住宅のように、昔、新しい事物に対して文化を形容詞的につけることもあったが、
そのような矮小化された意味ではなく、私は、「生活文化」という文化と人の生活との関わりをめぐっての議論をしたいと思う。
筑波大学大学院の時の恩師、KJ法の川喜田二郎先生は、「文化生態学ゼミ」をもっておられた。
師は、人間が外界である環境に適応していくのに、3重の輪を考え、
最も外界と接するところには「技術」を、
そして次の円には「社会」を、
そして、最も人間に近い輪との接点に「文化」をもってこられた。
言わば、技術ー社会ー文化を介して、人間は環境に適応しているというのである。
縄文人であれば、石器や土器が技術、邨(ムラ)という社会、
そして、ストーンサークルのような祭祀のためと思われる道具立てに代表される大きな意味での文化があった。
石器は、狩りをし、獲物を解体するのに役立つ。
邨(むら)は、離合集散を繰り返し移動可能な集落からなるノマド社会をさす。
そして、文化は、葬送にまつわる特別な祭祀だけではなく、
獲物を解体する作法にもみられた。
例えば、アイヌの「熊送り」の儀礼が最も有名だと思われるが、
それが、「生活文化」だ。
生活文化は、人々の暮らしの中にある。
担い手は、特別に役職のある人ではなく、村人一人ひとりだ。
生活の知恵とも言っていいが、
生活文化は、それよりももう少し社会全体に共有されているという相互認識があり、
また、過酷な環境に適応するために必要とされる技術に裏打ちされた精緻な知恵が組み上がったものだ、
と定義したい。
そして、生活文化は伝承される。親から子へ、そして、村から村へと。
バングラデシュの平野部の農村では、
牛に食べさせる稲藁を積んで置くのに、ものすごくきれいな形をした丸い山にしている。
雨露をしのぐためと、形を維持するためにこれが一番安定だという究極の形に到達しているのだ。
これも生活文化。
(詳しくは別稿に譲るが)古くなったサリーの布を何枚か重ねて刺し子のように縫い合わせて、
掛布団(カタ)に作る習慣も生活文化で、ノクシカタ(デザインのある布)として伝統的に有名だ。
一方、サルはどうであろうか?
昔、ヒトとサルとの大きな違いは、直立二足歩行・道具の使用・言語の有無であった。
しかし、ここ30年くらいの大型類人猿から原人への進化についての骨の研究から、
直立二足歩行をするサルがいたことがわかったし、
ボノボ(ピグミー・チンパンジー)という現存するチンパンジーの亜種は、両腕でモノを運ぶ時など、
器用に直立二足歩行をする。
そして、道具の使用に至っては、
アフリカ大陸に現存するチンパンジーの社会で30以上もの道具使用の例が見られることがわかってきた。
代表的な、道具使用は、例えば、ある葉の中軸をこそげて細い棒をつくり、
その棒をアリの巣に差し込んで、アリ釣りをしてアリを食すというものだ。
または、葉っぱを丸めてコップのようにして川の水を飲む、
または、大きな葉っぱをぐしゅぐしゅっと丸めてスポンジのようにし、
それを水に浸して、そこから水を吸うなどのように葉っぱを道具として利用するのである。
そして、その道具使用には、地理的な分布に違いがあることもわかっている。
つまり、道具使用は、遺伝子に司られる生得的形質ではなく、
あきらかに社会文化的に後から獲得された形質だと言えるのだそうだ。
もはや道具使用の有無は、ヒトとチンパンジーを隔てる壁ではなくなったのである。
言語の使用についても、喉の解剖学的な違いにより、サルはヒトのように発声できないことがわかっているが、
京都大学霊長類研究所のアイちゃんのように、記号としての言語を自在に操るチンパンジーもいる。
このように、ヒトとチンパンジーを隔てる壁はずっとずっとなくなりつつあるのだ。
遺伝子地図の研究でも、今や、チンパンジーとヒトとは、DNAが98%も同じである。
反対に言えば、その差は2%にすぎない。
つまり、チンパンジーもヒトと同じように、技術―社会―文化を介して、環境に適応してきたのだと言える。
生活文化と私たち。 そこには広くて深い道が続く・・・・・・・・。