ブログ~多様性の小径~


「鳥の目」・「虫の目」-掛谷誠先生の追悼にあたって

2013年12月末、恩師である掛谷誠先生(京都大学名誉教授)が、
68歳の若さでお亡くなりになり、
2014年3月21日、京都で「追悼の集い」がありました。
フィールドワークの真髄を叩き込んで下さった先生への想いを、
自分の原点を見つめ直す意味もあり、ここに掲載します。

 

「鳥の目」・「虫の目」-掛谷誠先生の追悼にあたって     

掛谷先生は、風のような人だった。
その最期も、きっと颯爽としたものだったに違いない。

しかし、3.11以後の日本の混迷を見るに、掛谷先生の思想を今こそ聞きたいと思う。
でも、掛谷先生の生の声にはもう接することができないと知ると、その悲しさは言いようがなく、悔しささえ覚える。

私は、筑波大学大学院環境科学研究科「文化生態ゼミ」1年生の時から、直接教えを受けた。
掛谷先生が、アフリカ研究の第一人者であることはご存知のとおりだが、
同時に、文明論を鋭く展開する思想家でもあった。

生態人類学のフィールド研究を第一義としながらも、
常に世界にアンテナを張り、学際的に文献を読破し、
ゼミ生との議論を好んで仕掛けてくださった。

つくば学園都市の宿舎にゼミ生がおじゃますると、居間には、
雑誌『世界』や『政治をするサル』に加え、「丸山眞男」や「吉本隆明」「柄谷行人」、
そして、「鶴見和子」や「山尾三省」まで、実に多くの書物が堆く積まれており、
奥様の英子さんも交
え、議論のテーマは尽きなかった。

ニューアカデミズムとパラダイムシフトが席捲していた時代であった。

私は、修士1年生の最初「文化生態学原論」で、「鳥の目」、「虫の目」という視点を掛谷先生から教わった。

「鳥の目」は、
文字どおり、鳥のように空から対象世界を俯瞰して巨視的にとらまえる視点であり、
一方、「虫の目」は、
地面に這いつくばって具体的な対象について愚直なまでに微視的にとらえる視点である。

そして、ものごとを見るには両方の視点が必要で、
その往復運動が新たな分析や発見に役立つという教えであった。

毎週火曜日、午後から夜にかけて6~7時間続くゼミでは、
フィールドワークから戻ったばかりの修士
2年生の現場報告を軸に、
「虫の目」から見たフィールドについて活発な議論が交された。

当時まだフィールドに本格的に出ていなかった修士1年生の私は、
「坂本さんちのマサシさんが・・・」とか、
「岩海苔採りのおばさんが・・・」とか、ゼミの先輩方が描く固有名詞の生活世界に圧倒されたものだ。

川喜田二郎先生の空高くから発せられる絶妙な見解や、
意外な角度から質問される西田正規先生の問いに加え、
柳田国男や宮本常一をも彷彿とさせる、
人間愛あふれる掛谷先生のコメントに、皆、よく聞き入ったものだった。

そして、掛谷先生はいつも、ゼミ生がフィールドの実態にどこまで迫れているのかを鋭く看破し、
「仮説はフィールドで崩れ、同時に、新たな仮説はフィールドでこそ生まれる」、というのが口癖でもあった。

他方、掛谷先生はとてもスマートな面を見せた。「鳥の目」である。

ある1つのエピソードを記しておこう。

人類学の学徒からみて、「国家」とは何か?という問いが掛谷先生からゼミ生に投げられたのである。

国家とは、制度の主体であるとも、法律を担保する単位であるとも、答える者があったが、
掛谷先生の解答は次のようであった。

タンザニアのトングェ族の村人に聞いたら、「国家とは紙を配る人」だった、のだそうだ。

何かの通達か選挙広報の類なのであろう、行政官が村に来て書類を配る。
その様を、非識字者の村人が見て、彼らは「紙を配る」のが国家だと思うしかなかったのだ。

この村人達のいわば誤解を、私はある種の哀しさとともに「なるほど」と納得したことを覚えている。

トングェ族の村人のこの理解は、教育学者・勝田守一の言う
「文字は官僚の書記言語として必要だった
(=庶民には「書き言葉」は必要ではなかった)。」という指摘とも一致する。

このように、無文字社会に生きる村人や、
為政者の歴史から見れば名も無き存在として捨て置かれる人々に光を当てる、
掛谷先生の優しいまなざしと強い正義感は、
人としての高い品性と学者としての深い洞察力に裏打ちされていたといってよい。

そして、アフリカは独立したが、1980年代当時、アフリカ諸国の多くが、援助に頼り汚職にまみれ、
地域自立を果たせないままにあることは、
掛谷先生の中に忸怩たる思いを抱かせていたのだと思う。

それを踏まえた上で、「鳥の目」で、国家と国民との<隔たり>に想いを馳せ、
アフリカ世界における<内的フロンティア>=アフリカ型の農村社会について、
独自の発展論を待ち得ないものかと、
掛谷先生は苦闘しておられたのだ、と私は受け取っていた。

一方、私はといえば、津軽岩木山赤倉沢の巫者の世界を「情報環境修復技術」として修士論文で詳述した後、
京都大学アフリカ地域研究センター(当時)の研修員を経て、
国際協力NGOの専門員としてカンボジアに駐在し農村開発に従事した。

そして、現在は、バングラデシュをフィールドとし、
大学でフィールドワーク論や多文化共生教育を担当している。

掛谷先生から受けた薫陶が土台となって、今の仕事ができているといっても過言ではない。
フィールドワークの真髄と思想のなんたるかを、身をもって教授して下さったからだ。

そして、20131014日、
名古屋において、「文化生態ゼミ」同窓生有志で、掛谷誠先生と佐藤俊先生を囲む会を持った。

その時、掛谷先生は本当にお元気で、ゼミの議論が再来したかのようなキレをお見せになった。

 

 

 

 

 

二次会で、私は、ウン十年前に書いた修士論文を世に出すべきだと、

掛谷先生から叱咤された。
あれほどのデータがあり、対象世界とラポールがとれているのに、
未だにフィールドに恩返しをしていない、と激励してくださったのだ。

これは、この夏、田辺のおばちゃんに会いに津軽に行き、
彼女が生きた巫者としての一生を、
「野のカウンセラーを生きる」と題して一冊の本にまとめねばなるまい、と心した。

掛谷先生は、本当に残念なことに早く逝ってしまわれたが、
ありがたいことに、私は掛谷先生の教えによって生かされている。

「我々は、幼稚園か大学院の教師にしかなれない。」とは、
伊谷純一郎先生から掛谷先生に伝えられた教育観の一端のようだが、
学校教育が担う知識偏重型の教育ではなく、
徹底してフィールド(=現場)から学び議論するというラディカルさを
(不肖の弟子であることが許されるのであれば)私も引き継げればと思う次第である。

掛谷先生、どうかトングウェ族の呪医の知恵と力で私を見守り、
そして風となってこれからも私を訪ねてください。

末筆ながら、ここに掛谷誠先生のご冥福を謹んでお祈りする次第である。

(2014年5月12日)
*この追悼文は、7月11日、生態人類学会のニュースレター(掛谷誠先生追悼特別号)に掲載されました。

大学での教育や共育ファシリテーターとして思ったことなど、日々の思索をつづっていきます。 価値の多様性を尊重し、さまざまな意見に出会いたいとも思っています。 お感じになったことは是非コメントをお寄せください。よろしくお願いします。

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