風の学舎から眺める景色は本当に美しい。
朝靄にけぶる早朝、向いの風越山から遠くの中央アルプスまでその連なる山並みもすばらしいし、昼間、虎岩の高台から川面へ、天竜川がつくる河岸段丘を手に取るように一気に見渡せるのもうれしい。そして、夜は飯田の街を見下ろす夜景が特に美しいのだ。
<南信州・飯田市生まれ>
私は、飯田市本町で生まれ、東京で育ったが、幼稚園から高校まで毎年夏は飯田で過ごした。
跡取り息子となった叔父の本町の家は、間口に対して奥行きが5倍から6倍以上あるという京町屋のような造りの家で、一番奥には味噌蔵があり、その上の物干し台から、夏は飯田の花火をよく見たものだ。
味噌蔵の味噌樽は私の背丈よりうんと高く、3つも4つもの樽の間は格好の隠れ家だったが、あの味噌の芳しい匂いは今でも忘れられない。
反対に、祖父母は隠居しており、今宮球場の上の田舎の山の平家に引っ込んでいた。
当時近所には、牛馬を飼う農家もあったし養鶏場もあった。セリやシジミの取れる堤に囲まれた湧水の池や、田んぼもあり、モリアオガエルも棲んでいたりと、自然に囲まれた風景が広がっていた。
私は、この対照的な2つの家を行ったり来たりしながら、同年代の従兄弟たちと一緒に育った。
東京の核家族育ちの割には、多文化共生に聡いのは、この育ちのおかげだと思っている。
<河童>
小さい頃、親戚中で天竜川にピクニックに行ったことがある。中州でお重に入ったお弁当を広げ、子どもたちは泳いだ。しかし、私は、小さい淵に足を取られて溺れそうになったのである。
「河童にさらわれんで、よかったずら。」とはお祖父ちゃんの言。ちょっと怖い天竜川の思い出。そんな体験が根にあるからだろうか、小学校の時の夏の自由研究は、飯田を舞台にした河童の研究に没頭した。飯田の図書館で本を調べたり郷土史家に取材をしたりした。河童は、胡瓜が好物で、頭にはお皿があって水が入っており、それが乾くと命が危うい。妖怪なのだが、押洞の小川や水の湧く池の堤の端などは、本当に河童が出てきそうな場所がたくさんあった。
緑豊かな場所だけではなく、飯田の町中の黒板塀が並ぶ料亭街に流れるお堀にも居そうであったし、京町屋のような家並みの裏を流れる水路にも居そうであった。小学校3・4年生の頃、飯田の河童は私のアイドルだったのである。
<伊那谷の文化>
高学年になると遠い親戚の家にも足を伸ばした。
水田で鯉の養殖をしている家、2階がお蚕さんの部屋になっている家、駄科のおじさんは小学校の校長先生で、星や植物や昆虫のこと、そして、ザザ虫や蜂の子など、伊那谷における昆虫食い文化についても教えてくれた。
そうそう、12歳の時は、7年に1回開催される大名行列という城下町飯田市の催事にも出演した。もちろん姫役にはなれず、何十人というお付きの武士の1人に扮したのだったが。
そして、行列のお休み処でいただいた甘酒がとてもおいしかったのを覚えている。
甘酒は喜久水の酒粕を使っていただろうか。素朴な品だが、きゅうりの粕和えも涼しい料理の1つだった。海のない信州特有の塩イカを加えて和えてもおいしい。それに、鯉料理の数々、おたふく豆やきんつば、そして、おまんじゅうの天ぷらやコンニャクとニンジンの白和え(豆腐とクルミ和え)も忘れられない。
総じて、生活文化が豊かだったなと、今でも思う。
私が、その後、フィールドワークを土台にする人類学や体験学習を軸にした教育学に傾倒していくのも、根っこはこの辺にあるのだと思う。
<南信州フォーラム>
その伊那谷の生活文化に、20年数年ぶりに接し直している。
昨年から始まった「南信州フォーラム」への参加である。
印象的なのは、季節を生かした食事。ウゴギのおひたしや、竹の子汁、鮎の甘露煮、春のちらし寿司など、子どもの頃の祖母の料理の味が再現されたような錯覚を覚える。
それらが、ごんべい邑や、久堅御膳のような、地域おこしをなさっているお店やグループの手から供されるのもうれしいことだ。
食べ物の「地産地消」は、地元だけではなく訪れる都会からの訪問者をも元気にする。
そして、地域の人との出会いもかけがえのないものであった。
昨年のフォーラムでは、民宿百選に選ばれた農家民宿のおかみさん・太田さんとの出会い。そして、今回は、味噌づくりを指導する地元の若い農家の女性と、これまた和合村を活性化しようとする若いIターン女性との出会いがあった。
そして、今回のフォーラムのメインイベントは、風の学び舎からの、2本のプレゼンテーションだ。
まず、「豆人プロジェクト」。
昨年のワークショップで触れられた、「みやましい」(格好がきっちりしている、ズクがある、の意)という方言をもとに、「みやまし共和国」構想が浮上したが、その共和国を支える第一歩の具体的なプロジェクトである。
「豆人プロジェクト」そのものについては、別稿に詳しく報告されるであろうからここでは割愛するが、要は、都会と田舎の交流の結節点に、大豆栽培と味噌づくりを置くのである。田舎の休耕田の活性化が、都会人にとってみれば、土や自然との触れあいによる癒しをもたらす。大豆という万能の作物をつくることで、土壌改良にもなるし、また、手作りの味噌文化へと結実していく。田舎と都会とが、一挙両得のプロジェクトだ。
土・日にフリーの仕事が入る私には今のところコミットが難しいが、ぜひ、いろいろな都会の人に参加してほしいと思う。そして、私にとっては、いつか(日本の中で)帰る場所があると思わせる、そんなプロジェクトとして末長く育ってほしいと願うところだ。
<自然エネルギーへのシフト>
2番目のプレゼンテーションは、風の学び舎を運営している、NPO法人・いいだ自然エネルギーネット山法師の事務局長、平澤和人氏による自然エネルギーへのシフトをテーマにした問題提起であった。
http://yamabousi.net/pdf/2011.7energy-1.pdf
このフォーラムの東京側の主催者からは、ワークショップについては、発表を受けて、軽くブレインストーミングをするぐらいの準備でいいと言われていたが、この発表はいい意味で重たかった。評論や概論ではなく、2050年までに、自然エネルギーへ100%転換しうるという、具体性を持った脱・原発の提案だったからである。
発表の質疑応答から、場は熱くヒートした。
データで示された事実として、自然エネルギーへの転換が可能だということは、3.11以後、脱・原発を模索しようとしている者にとっては、目からウロコが落ちるがごときの提案が眼前に現れたのであるから、「本当なのか?」と、半ば喜びを抑えながら震えることになった。
他方、原子力発電は必須であると思っている立場からは、自然エネルギーへの転換が可能だという事実を認めたくないというような、驚きというか怒りのようなものもが静かに伝わってきた。
その場のファシリテーションは難しく、質疑から議論にスムースに入れなかった。
苦肉の策として、3つのテーマを用意し、各々参加したいグループで議論をすることになった。
私は、全体のファシリテーターでもあったが、自然エネルギーについてもっと議論するグループに入った。
火力(石炭)・水力・太陽・風力・地熱などの各エネルギーの、メリットとデメリットを整理しながら議論をしていった。その結果、「資源・エネルギーの地産地消」という大事なキャッチコピーが浮き上がってきた。
水の豊かな国での(広域ではない)地域レベルの小規模水力発電の可能性、そして、視察もした「メガ・ソーラー事業」、太陽エネルギーの実際。
そう、食べ物だけではなく、資源・エネルギーも「地産地消」が自然なのだと思う。
地域経済やローカルコミュニティが再生するためにも、それは必要であるし、都会の生活でも、それは考えていかなくてはならないと強く感じた。
南信州フォーラム、風の学び舎を核として、もっともっと大きな輪になっていってほしいと思う。個人的には参加し続けることを大事にし、一層の出会いに期待したい。
参考:「風の学び舎」 http://yamabousi.net/